第7次「朝鮮報国隊」の看守たちの名簿
朝鮮総督府刑務所の用紙に書かれている
龍起義さんが記憶していて書いた文字
龍起義さん(1926年生)
「朝鮮報国隊」宿舎跡まえで
日本軍が飛行場を作ろうとした陵水黎族自治県三才鎮后石村に住む龍起義さんは、
「‘朝鮮報国隊’と‘台湾報国隊’が、ここで飛行場建設をさせられていた。
宿舎は鉄条網で囲まれており、それぞれの入り口に、‘朝鮮報国隊’、‘台湾報国隊’
と書かれた木の板が掛かっていた」と証言している。
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衣笠一氏の手記(部分)
「朝鮮報国隊」にかかわった日本人で、当時のことについて発言しているのは、
「朝鮮報国隊」の看守であった衣笠一氏(1913年生)ひとりである。
かれ以外は、日本軍関係者も日本政府関係者も朝鮮総督府関係者も沈黙しつづけている。
衣笠一氏は『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』を1990年代末に発表し、
さらに2001年に書いた「(自分史)わが足跡 上」の「陵水時代」の章などで、
「朝鮮報国隊」や「台湾報国隊」について記述している。
衣笠一氏は、朝鮮総督府大田刑務所の看守長であったが、
1943年11月に第7次「朝鮮報国隊」の隊長として海南島に行き1946年3月に日本にもどった。
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1943年3月に、第1次「朝鮮報国隊」隊員として海南島に送られ、1944年8月に生還したPさん(1920年生)は、
「行くときの船の名は、日本丸。ものすごく大きい。大砲がついていて、軍人が大勢乗っていた。
長崎、台湾によって、三亜についた。飛行場を作らされた。
逃げた人たちもいたが、つかまってひどい目にあわされてからは、逃げる人はいなくなった。
逃げたら銃に撃たれて死ぬ。歩哨がいた。日本人で、銃を持っている。
宿所の入り口に朝鮮報国隊という看板がかかっていた」と証言している。
(2001年4月12日、ソウルで)
「朝鮮報国隊」の朝鮮人看守が、海南島で日本陸軍の軍属として「現地召集」されたばあいもあった
海南島に行った看守は、海南海軍施設部所属であったことがわかる
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